五右衛門風呂ラプソディー
「とうとうやったな~!」
素っ裸で仁王立ちの私は勝ち誇った雄叫びをあげて、五右衛門風呂に飛び込む。
「あ”~~」
「ふぅ~~」
「はぁ~~」
さまざまの吐息を発し、めくるめく苦節数ヶ月が走馬灯のごとく脳裏に浮かぶ。
「じわ~っと熱いがこれが五右衛門風呂の醍醐味であって熱いようで熱くない・・・もしくは足が冷えてたから熱く感じ・・・!あっつー!あああっちー!」
今度は飛び出る。
「さっすがにあっちーよ!おい!」
と、水を注ぎ足す贅沢、快感!
しかもシャワーで冷や水を浴びたりなんかすると、悲運というようなものがあったならそいつに思いっきり冷水を浴びせてでもいるかのような優越感のようなものが沸いてくる!
夜空は満月。美しい満月を女神になぞらえうっとりしながら風呂を焚くのも実に風流である。
燃え盛る火を見ながら五右衛門風呂の意味を問う。
風呂を焚くため山から枯れ竹やら枯れ木をかき集め切り分け1時間ほどかけて薪をくべながら沸かすこの手間。
今の時代にこんなことをするのは酔狂か愚行のようにも思える。
この上風呂が壊れて数ヶ月すったもんだしてここまでたどり着いた。
これはもうクレイジーかファンキーである。
こんな五右衛門風呂だからいつまでもつか手放しで喜べないところではあるが、この「今」「一回の風呂」は充分意味のあるものである!
僕は思った。
僕がもしガキの頃に未来透写機のようなものがあって今の自分の生活を見せられたら、きっと(いやだー!こんな生活ー!1人だし寂しいし寒いしいろいろ大変だし!なんでこんなことしてんねん!時代に逆行してる!社会のレールから外れてる!いやあ、ちゃんと勉強していい給料もらえるような所でまじめに働こう!)
とこういう風に思ったに違いない!
さすれば、今の私は存在しなかった。
よってこの島のSARAIも存在しなかった。
そして僕は、きっと今のように得がたい貴重な体験をすることができずこの世の物質生活に憂き身をやつして悶々としたままどこへ行くかもわからないままあの世へ旅立たざるを得ないと言う一部散見される現代人あるいは以前の自分の陥る迷いの人生に堕していただろう。
僕は阿呆の自分に言い聞かせたい気持ちだ!
「もっと誇りを持て!」
満月の女神もそんなふうに無言の教えを垂れているように思えた。